以前、お仕事をさせて頂いたお家のご主人が言うには
ここ瀬川・半町地区には「瀬川宿」という宿場町だけで
半町はなかったのだが、今の新稲付近にある半町池の
周辺の人達が下りてきて、後から半町村を創ったのだと
興味はあったのですが、調べる時間も無く今日まで・・・
でぇ・・・今日、早速調べてみました。
ネットで調べても何の手がかりもなく
以前、箕面の事で分からない事は、箕面郷土資料館に
行けば分かる!っと言われたのを思い出し行ってきました
今の瀬川は、鎌倉時代の頃に『瀬川宿』が置かれ
栄えていましたが文禄3年(1594)先に天下統一をした
豊臣秀吉が村切りを行い瀬川村も分断されました。
ほぼ時を同じく1596年に起こった慶長伏見大地震により
活断層の真上に位置した今の新稲付近で農耕で生計を
立てていた坂上の人(はんじょうのひと)達が
荒れた土地を手放して、宿場経営に生活の糧を求めて
下りてきたそうです。
宿場を経営する際、街道に面して細長く宿が設けられた為に
村の幅が半町=54mであったため、呼び方もそのまま
「はんじょう」としたそうです。
写真の赤い○が「はんじょう池」
(現在の地図では半町と表記)
屋外活動センター教学の森の入口付近
スカイアリーナの西側に位置します